子どもに戻る

母を見ていると、人間はある程度年齢を重ねると退化していくのだということがわかります。

発言も思考回路も幼児そのもの。
80歳を前に、彼女が持つ『大人力』の衰えをひしひしと感じています。

大人力とは社会性や倫理性で己の言動を整えることでしょうか。
我を貫くのではなく、目の前の人間のことも慮る。それってとてもエネルギーを使うのでしょうね。もうその力は残っていないのだ。会うたび思い知らされます。

今、彼女は思ったことを無邪気に口にしすぐに忘れます。

常識の通じない2歳児とよく似ており、けれどお構いなしに次々発せられる言葉。
うまく聞き流せなくなると、白旗を挙げて母の側から離れることにしています。
言い返してもよいことなし。それも経験済のこと。

そういえば私もいろんなことが出来なくなってきました。
いや、頑張ろうと思えばできる。ただ、頑張りたくないのです。

家事でも掃除でも。

最初はぐうたらなのかと自分を責めていましたが、これは年齢のせいかも、と思うことにしました。料理研究家も雑誌でそのようなことを書いていましたから。時間があれば、ゆっくりならできる。でもそれもないのですから仕方ありません。
もう、これは、老いのせいにしておくことにしましょう。

この年齢なりの暮らし方を見つめ直す必要がある。
あぁ今一度、立ち止まらねば、ぐるりと生活の全てと自分のペースを見直さねばと感じています。

母を見ていると、老いの準備ができますから、ありがたいです。

 

新しいもの好き

我が家にiPadがやってきました。

日中、PC画面と向き合っているからか、はたまたよる年波には勝てないということか。

とにかく年配の方が口にする〝目がショボショボする〟とはどういうことか、身を持って知るようになると、スマートフォンの小さな画面が辛くなってきました。

正直、電話が出来ればこれ一台で事足りますし、キーボードを接続した本機は入力も問題なし。PCすら不要。

遠い遠いご先祖の存在を今に感じるのと同じくらい、新しいものに触れると心がときめきます。

とはいえ、新しい知識を身につける速度は10年前とは違いますね。

年齢により変化している自分に出会うとき、若さに執着していることを知ります。

 

年老いた自分の中に残っているものはなにか。何を手放し、何を大切にしているのか。

そこには〝本当の私〟がいることでしょう。

 

iPadの話から、なぜそこまで飛躍したのかはわかりません。

迎春という言葉

年賀状を出していた頃のこと。

「あけましておめでとう」よりも

「迎春」という言葉を使っていました。

とはいえ春という響きはぴんとこない慌ただしさと寒さに違和感を感じていたのですが。

旧暦元旦の本日、職場まで歩いてゆくと春の気配があちこちに見られました。

今なら「迎春」が自然な言葉であることがよくわかります。

春を迎えることができた歓びの言葉だったのですね。

旧暦だと理解できる暦。昔々の人たちと繋がれたような気がして嬉しくなりました。